「ママ議員」と呼ばれたくない—肩書の裏で闘う女性政治家たち

その夜、閉会した議会の通用口から出てきた彼女は、コツコツと鳴っていたハイヒールの音をふと止め、それを手に持って裸足に近い姿で歩き始めました。

アスファルトの冷たさが、張り詰めていた心にじんわりと染みていく。
そんな彼女の姿に、私が10年間追い続けてきた多くの女性政治家たちの「声にならない声」が、重なって見えた気がしました。

いつからか、私たちは子育てをしながら議員活動をする女性たちを「ママ議員」と呼ぶようになりました。
それは親しみを込めた愛称であり、彼女たちの存在を分かりやすく社会に広める記号になったのかもしれません。

しかし、その一方で、この「ママ議員」というラベルが、彼女たちの専門性や政治家としての覚悟、そして見えない場所での闘いを、覆い隠してしまっているとしたら。

この記事は、私が政治ジャーナリストとして彼女たちの隣で見て、聞いてきた記録です。
なぜ、彼女たちは「ママ議員」と呼ばれたくないと願うのか。
その肩書の裏にある真実に、一緒に耳を澄ませてみませんか。

なぜ「ママ議員」という“ラベル”が生まれるのか

「ママ議員」という言葉には、不思議な引力があります。
メディアにとってはキャッチーで使いやすく、有権者にとっては政策の方向性が一目でわかる便利なキーワードに見えるからです。
しかし、この分かりやすさの裏には、根深い社会構造が隠されています。

分かりやすさを求めるメディアと社会の期待

メディアは、複雑な政治の世界を少しでも身近に感じてもらおうと、政治家にニックネームやキャッチフレーズをつけたがります。
特にテレビやネットニュースでは、限られた時間で視聴者の関心を引くため、「子育て中の母親」という属性は非常に強力なフックになるのです。

そして、私たち社会もまた、無意識のうちに「母親」という役割に特定のイメージを期待しています。
「母親なのだから、きっと子育て支援に熱心だろう」
「優しい視点で、暮らしに寄り添った政策を打ち出してくれるはずだ」

こうした期待は、決して悪意から生まれるものではありません。
むしろ、政治に新しい風を求める純粋な願いの表れとも言えるでしょう。
ですが、その期待がいつしか固定観念となり、一人の政治家を「ママ」という枠に押し込めてしまう危うさを、私たちは見過ごしてはなりません。

政治の世界に根付く旧来の「女性役割」

そもそも、日本の政治の場は、長い間「男性中心」で設計されてきました。
2024年のデータを見ても、日本の衆議院における女性議員の比率は世界的に見ても極めて低い水準にあります。
これは、G7の中でも最下位という現実です。

このような環境では、数少ない女性議員は「女性代表」という役割を背負わされがちです。
その中でも「母親」という属性は、最も分かりやすい役割分担の対象となります。
あたかも、議会という大きな組織の中で、「女性・母親に関する案件は、あのママ議員に任せておけばいい」というかのような、無言の空気が生まれてしまうのです。

私が取材したある県議会議員は、こう漏らしていました。
「当選当初、男性の先輩議員から最初に振られた仕事は、議会で出すお茶の種類を決めることでした。悪気がないのは分かるのですが、私の専門は経済政策なのに…と、悔しさがこみ上げました」

このエピソードは、政治の場に今なお残る、旧来の「女性役割」の押し付けを象徴しています。

当事者が語る「期待」という名のプレッシャー

「ママ議員と呼ばれること自体は、悪いことばかりではありません」
そう語ってくれたのは、3人のお子さんを育てながら市議会議員を務める女性です。

「おかげで、子育て世代の皆さんが気軽に声をかけてくれるようになりました。でも、」と彼女は言葉を続けます。
「でも、私が財政問題について発言すると、『専門外なのに』という顔をされる。私が本当に実現したいのは、未来の世代に負担を先送りしないための行財政改革なんです。“ママ”という肩書が、私の政策の幅を狭めてしまうようで、怖いと感じることがあります」

この言葉にこそ、問題の本質が隠されています。
期待は時に、人を縛る鎖になる。
「ママ議員」というラベルは、親しみやすさと同時に、彼女たちが持つ多様な専門性や政治家としての可能性に蓋をしてしまう、見えないプレッシャーとなっているのです。

肩書の裏にある、彼女たちの見えない闘い

「ママ議員」という一言では決して語り尽くせない、壮絶な日常。
その舞台裏で、彼女たちは何と闘っているのでしょうか。
それは、時間的・物理的な制約との闘いであり、議会に根付く偏見との闘いでもあります。

議員と母親、二重の役割がもたらす現実

議員の仕事は、私たちが想像する以上に不規則で、終わりがありません。
平日の議会はもちろん、夜の会合や週末の地域行事への参加は当たり前。
有権者からの相談があれば、時間を問わず駆けつけなければならない場面もあります。

ここに「母親」という役割が加わると、どうなるでしょうか。
子どもの急な発熱、保育園からの呼び出し、終わらない家事。
ある議員は、「睡眠時間を削るしか、時間を作り出す方法がない」と、疲れ切った顔で話してくれました。

特に、選挙期間中の活動は熾烈を極めます。
時間を無尽蔵に投入できる候補者が有利とされる日本の選挙スタイルは、家庭でケア役割を担うことの多い女性にとって、あまりにも高い壁となっているのが現実です。
彼女たちは、議員として、そして母親としての役割を全うするために、文字通り心身をすり減らしながら日々を乗り越えているのです。

「母親なのに」―議会に潜むジェンダー・ハラスメント

さらに深刻なのが、議会内に潜むジェンダー・ハラスメントの問題です。
ある調査では、地方議会の女性議員の3人に1人が、有権者や他の議員からハラスメント被害を受けたと報告されています。

「夜の会合を欠席すると、『付き合いが悪い』と陰口を叩かれる」
「議会で子育て支援の質問をすると、『母親だからその話しかできないのか』とヤジが飛んでくる」
「“議員さん”ではなく、いまだに“〇〇さんのお母さん”と呼ばれる」

これらは全て、私が取材の中で実際に耳にした言葉です。
そこにあるのは、「母親なのだから、家庭を優先すべきだ」「母親なのに、政治に口を出すな」という、歪んだメッセージ。

こうした心ない言葉や態度は、彼女たちの尊厳を傷つけるだけでなく、政策議論への参加意欲さえも削いでしまいます。
彼女たちが闘っているのは、特定の誰かではなく、社会に深く根付いた無意識の偏見そのものなのです。

政策の専門性を覆い隠す“ママ”のレッテル

忘れてはならないのは、彼女たちが「母親である前に、一人の政治家である」という事実です。
弁護士、経営者、NPO職員、行政書士…。
議員になる前に、多様な現場で専門性を培ってきた人は少なくありません。

例えば、元アナウンサーという華やかな経歴を持ちながら、議員時代は文教・科学技術分野の専門家として活動した畑恵氏のような議員が積み上げた教育政策に関する実績も、時にはその入り口のイメージの裏で正しく評価されないことがあります。

参考: 畑恵 | 参議院議員の実績 | 国会議員白書

しかし、「ママ議員」というレッテルが貼られた瞬間、そのキャリアや知識が軽視され、子育て政策の「専門家」としてしか見られなくなる傾向があります。
もちろん、子育て当事者だからこその視点は、政策を豊かにする上で欠かせない重要な要素です。
実際に、彼女たちの声から、予防接種の手続き簡略化など、数多くの素晴らしい政策改善が生まれてきました。

しかし、外交や安全保障、エネルギー問題やデジタル改革など、子育て以外の分野においても卓越した知見を持つ議員はたくさんいます。
彼女たちが持つ本来の能力が、「ママ」という属性によって正当に評価されないのだとすれば、それは社会にとって大きな損失ではないでしょうか。

「ママ議員」のその先へ―私たちが創る新しい政治の地図

では、この見えない壁を壊し、誰もが属性ではなく一人の人間として尊重される政治を実現するために、私たちは何をすればいいのでしょうか。
そのヒントは、彼女たちの闘いの中に、そして私たち自身の意識の中にあります。

属性ではなく「政策」で語り合うために

まず大切なのは、私たちが政治家を見る目を少しだけ変えてみることです。
「ママ議員」だからといって、自動的に子育て政策に賛成票を投じるわけではありません。
その人が、どのような政治理念を持ち、どのような社会を目指しているのか。
どんな課題に対して、どんな解決策を提示しているのか。

肩書や属性という分かりやすい入り口から一歩踏み込んで、その人の「政策」や「言葉」に直接触れることが、新しい対話の始まりになります。
選挙公報を読み込む、議会での発言をチェックする、SNSでの発信に耳を傾ける。
手間のかかる作業かもしれませんが、それこそが民主主義の根幹であり、私たち有権者に与えられた最も大切な権利であり責任です。

有権者であり、社会の一員である私たちの役割

政治を変えるのは、政治家だけではありません。
議会に多様な背景を持つ人材を送り出すのは、私たち有権者の一票です。

「女性だから」「母親だから」という理由だけで投票したり、あるいは投票の選択肢から外したりするのではなく、一人の政治家としてその資質を見極める。
そして、もし私たちの住む地域の議会に女性議員がいないのなら、「なぜいないのだろう?」と考えてみること。
その小さな問いが、社会を動かす第一歩になります。

また、日々の生活の中でも、無意識のうちに性別による役割分担を誰かに押し付けていないか、振り返ってみることも重要です。
「男だから」「女だから」という言葉を使わない。
それだけでも、社会の空気は少しずつ変わっていくはずです。

多様な背景を持つ議員がいる議会の本当の価値

議会は、社会の縮図であるべきだと言われます。
性別、年齢、職業、家庭環境…。
多様な背景を持つ人々が議員として集まることで、初めて、これまで見過ごされてきた社会の片隅にある声が拾い上げられ、政策に反映されるようになります。

子育て中の議員がいれば、子育て世代の困難がよりリアルに伝わる。
介護を経験した議員がいれば、高齢者福祉の課題に光が当たる。
多様性とは、単なる数の問題ではなく、議会という場の想像力を豊かにし、政策決定の質を高めるための不可欠なエンジンなのです。

「ママ議員」という言葉の先に、私たちは、多様な経験を持つ一人ひとりの議員が、その属性に縛られることなく、存分に力を発揮できる議会の姿を思い描くべきではないでしょうか。
それこそが、誰もが取り残されない社会を創るための、新しい政治の地図だと私は信じています。

まとめ

この記事では、「ママ議員」という言葉の裏で、女性政治家たちが直面している見えない闘いについて、様々な角度から光を当ててきました。

最後に、この記事でお伝えしたかった要点を振り返ります。

  • 「ママ議員」というラベルは、親しみやすさの裏で、彼女たちの専門性や多様な政策能力を覆い隠してしまう危うさを持っている。
  • 彼女たちは、議員と母親という二重の役割による時間的制約や、議会に根付くジェンダー・ハラスメント、そして「母親なのに」という社会の偏見と闘っている。
  • この状況を変えるためには、私たちが属性ではなく「政策」で政治家を判断し、多様な人材を議会に送り出す意識を持つことが不可欠である。

政治は“向こう側”にはありません。あなたの明日と地続きにあります。

一人の女性政治家の闘いは、決して他人事ではないのです。
それは、私たちがどのような社会で生きたいのか、そして次の世代にどのような社会を手渡したいのか、という問いそのものだからです。

もし、あなたの隣に彼女がいたら、何を語り合いたいですか?
その想像から、新しい政治は、きっと始まります。

最終更新日 2025年11月6日 by hitozu